皆様あけましておめでとうございます。
「〜何だ、今頃、今日は三日だぞッ」
と、お叱りを被るのは覚悟のご挨拶でございます。
実は長い間此の頁をほったらかしにしていましたから、年頭のご挨拶だけアップするつもりで居て、かまけてなにもせずに年末を仕舞いました。
ところが、さっきアクセス記録を見て、愕然といたしました。
昨日は41件。
実は、何もせずに居る間に“順調に?”下がって一桁に迫っておりましたのが、連載中に近い値にはね戻った、と云う感じです。
正月だから、なんか書いていないか、と、期待されている方の数と受け止めております。
その後の経過報告ですが、正直申し上げて全く進んではおりません。
一つには活字化の話があって、結局ポシャりましたが、それに気を取られたことがあります。
しかしながら作者のずぼらが大半の原因でしょう。
ただし放棄乃至あきらめたのとは違いますので、ある日突然火が着いて走り出すのではないか、と、(まるで人ごとのように)期待しております。
お正月のお伽噺を一つ。
実は昨年終わり頃、阿弥陀寺に詣でる機会がありました。
山三郎たちの本丸の跡はここか、と、創作した人間が勝手に感慨に耽ったりした後、きちんとお参りをしましたが、墓域の状態は正直言ってうそ寒いものでした。
時は容赦なく事実を風化させる・・
と云うのが感想です。
ところがなぜか次の日、大徳寺高桐院に参る機会がありました。
高桐院は常時開放された寺院ですが、実は私は始めてでした。
「妖刀伝の作者が、何だって、!」と、驚きお怒りになる読者もおいでかと思います。
ここは細川家の菩提寺で、創建したのは細川忠興、開山の玉甫上人は父藤高の弟、つまりおじさんです。
千利休と秀吉にまつわる灯籠があり、銘は無双。
忠興遺愛の此れが彼とガラシャ明智玉夫人の墓標です。
横の玉垣の中には幽斎藤高を中心に細川家歴代の墓標。
妖刀伝で主役を張ってって頂いて、お世話になった方々ばかり、それを今頃・・と云うことですが、未だ先があります。
ここには名古屋山三郎と出雲阿国の墓もあるのです。
ただ、これは一般檀家の墓地にあるので、残念ながらお参りは許されません。
なんでここに彼が?
と云う疑問には、お寺の方が答えてくださいました。
名古屋山三郎は玉甫上人に参禅していたからです、お国さんの方が後からついて来たのです。
と云うことでしたが、その後他の所で見た記事では、玉甫上人は相当情念のこもった山三郎を讃える賛、偈?のようなものを残されています。
いずれにしても、我らが名越山三郎の供養墓は此処にあり、私はそれに曵かれて此処へ参ったのでした。
と、云うことで、妖刀伝の両主役がそろい踏みとなりました。
お話は此れからです。
昨日初詣(では無いのですが、正月の神様もうで)で、此れまた偶々紫野の今宮神社に参りました。
元日と違って北山時雨の降る中でしたが、実は其の後建勲神社に参るつもりで居りました。
船岡山の建勲神社はご存知の通り、贈正一位太政大臣織田信長を祀る神社で、今宮神社からまっすぐ南へ行った所です。
そしてそこの拝殿に掲げられた織田の功臣たちの画像、当然その中に我らが乱丸の姿もあるものを、見てみたいと云うのがお参り以上に目的でした。
地の利に詳しい方はともかく、私はそれまで気がつきませんでした。
今宮神社の表参道は建勲神社の北参道につながります。
そして大徳寺は此の二つのお宮の間です。
参道の脇に高桐院の裏側の土塀が沿っていました。
乱丸君の絵姿に会いに、信長公のもとへ参上、と南に足を向けた時、それ迄の時雨がやみました。
道を半ば迄行った頃、うす日が差してきました。
その時わたしは気がつきました。
今通っている此の左の土塀は高桐院のものであることを。
そしてこの間の経験からそこに彼、名越山三郎が居ることを。
其のとき雲が切れて太陽が輝き始めました。
私は山三郎が私の行為を肯定してくれている、と感じました。
土塀の端で行って、横から墓地が覗けました。
中程に宝篋印塔の列が見えます。
山三郎は織田一族の墓列の端に、織田九右衛門として居ると聞きましたから、
きっとそこでしょう。
日はますます燦々と輝きだして、濡れた路面が嘘のようでした。
そして船岡山の登りにかかります。
日は陰らずに輝いてくれています。
私は乱丸も歓迎してくれているのかな、と感じました。
社殿に着いて拝殿を見ます。
回りの欄間には、多くの功臣たちの姿が描かれた額が掛かっておりました。
ただ相当に退色し、かつ距離があってもう一つよくわかりません。
カメラに望遠レンズをくっつけて覗きます。
幾人か候補が絞れました。
其のとき頭のてっぺんに水滴が、
拝殿の軒先に残った雨滴が落ちて来たのでした。
考えたら神前のお参りする前に此の作業をやっていたのです。
乱丸君、はじめは好意を示していてくれたのに、「この無礼者!」と、怒ったのでしょう。
でも、お参りをすませ、森長定(蘭丸、森可成第二子)とある、本能寺での絵姿を確認した後も太陽は輝いたまま。
私は妖刀伝主役の御両所は作者の扱い方を許容してくれていることに確信を持ちました。
ご神紋の木瓜もそうおっしゃっていたように思います。
以上、 真冬の昼の夢でした。