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妖刀伝・外伝を7月1日より新規連載します  室町末期から徳川初期に到る時空列を縦糸、武将と小姓の個の愛と誠が横糸の叙事詩、序上中下巻よりなり、因縁話の基層である序章はポルノ、バイオレンス的描写を含む


by annra
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妖刀伝中巻 聚楽第 13 

 中巻 聚楽第


第三章 変転

 3 小田原の役

乾坤丸の修繕は志摩まで回航する為だから、取り敢えずそんなに大袈裟にならなかった。
そして昨日辺りから目立たないように三々五々、回航要員がやって来始めた。
皆志摩水軍の強者である。
船の長は一益だが、実際に運用する船頭達もやってきた。
其の一人を見て杢兵衛は歓声を上げた。
安南に行ったときに乗った南蛮船の乗組員だったのだ。

二月ばかり経った。
長い渚の先が霞んでいる、 
その日の朝は朝靄が立ちこめていた。
乾坤丸は舳先を沖に向けて、波打ち際から少し離れて浮かんでいた。
少し右に傾いているが、今碇が巻き上げられる。
砂浜に並んで見送る氏郷や山三郎、重俊らの前で一枚の帆が揚がって行く。
そして乾坤丸の黒い船影は朝靄の中に小さくなり、消えていった。

年が変わって秀吉は小田原征伐を始めた。
四国九州は平定して徳川家康も臣従し、残ったのは小田原の北条だけだった。
此の遠征の勝ち負けは始めから見えていた。
見えていなかったのは小田原評定を繰り返していた北条氏だけだったろう。
秀吉は持てる全兵力を動かした。
秀次が先鋒で攻め込んで、幾つかの出城で初戦の激戦があった後小田原城は包囲された。
お得意の兵糧攻めだった。
ついでに向かい側の山の上に、もう一つのお得意の一夜城を作って威圧する。
彼は大坂から淀殿を呼び、諸将にも妻子を呼ばせて長陣の構えに入った。
日夜つれづれを慰める宴楽を張って、諸将が得意の芸を披露する或る日、前田利家の甥、慶次郎が秀吉の前に出てきた。
元々前田の家の本家筋で、利家が当主なのは信長の命令に依るものだったが、かぶき者として世に通っている。
その彼が猿に首輪をつけて連れてきて、猿回しを演じて見せた。
列座の諸侯の頬から血の気が引いて、一座が凍り付いたが、秀吉は呵々大笑し、”日本一の悪戯者”の称号を与えている。

そんな中で戦後処理構想が練られていた。
「江戸あたりを中心に武蔵常陸辺りを久太郎にやって、関八州を押さえさせようと思うがどうじゃ」
「掘秀政殿は信長公馬廻の第一人者、中国陣以来の御忠誠も光りますれば、大きくご抜擢のこと、宜しいかと存じます」と、三成。
今は従っている信長旗下の元朋輩連の中で、堀久太郎は若い。
中国陣の軍監として先遣されて難を逃れた因縁もあり、これからの事も有るから秀吉に対する忠実さには信が置ける上、本人の資質は信長が重用したところ、その上門地係累の煩わしさも少ない。
「されど此の御陣、豊臣の勢はほぼ全て加わっておりますれば、関東のその余の地、それぞれに恩賞のこと必要かと存じます」
「言わずもがなじゃ、まず籐五郎にも久太郎の近くに領地をやらねばなるまい、何時もそうしておるでのう。 家康には駿河の残りと相模小田原を与え、その余の者にも働きに応じて関東の各地に加増國替え致させよう」
長谷川籐五郎秀一は堀秀政と一二を争った信長馬廻り、安土城黒金門脇に邸を賜っていて、生き残ったのは家康の接待に堺へ同行していたお陰、ただ一緒に三河まで逃げた為に出遅れて、その後の出世が頭一つ遅れている。
秀吉はそれを意識して、二人の領地を隣り合わせにして競わせていた。
「蒲生殿には如何なされます」
「氏郷には奥州を切り取らせる」
「其れは至極の策と存じ上げまする」
秀正同様に若くて信長が認めた俊秀ながら、近江蒲生郡の主で信長の婿、安土城の留守居と、同じ天正十年六月時点でも格が違い、世間の信望も厚い。
「信長様は天下を蒲生にお譲りの御心積もりが在ったとか、無かったとか」
「其の噂余も聞いておる、そして実は半ばは信じて居る」
氏郷の天賦の資質は多くの人々を魅了していて、千利休は文武両道、日本一の御大将と評したし、この先
”もし天命革らたまるなれば、命必ず此の処に至るべし” という卦があった、
などと言い出す者まで現れて、秀吉は秘かに恐れを為している。

そうした構えで居たところが、日ならずして此の目論見が外れる事態が発生した。
話の要の堀久太郎秀政が、出陣の時は元気だったのに体調を崩し、陣中俄に病没してしまったのである。
善後策を相談された三成は関白に進言した。
「家康殿の処遇に御座いますが、」
「うむ、何とする」
「三河遠江より関東へお國替えなされませ」
聞いた秀吉はニタリ、と笑った。
「二百万石を越そうか、大出世じゃ」
「家康殿の姓氏は源氏。父祖の地は棄て遠祖の故地にお戻りで御座る」
「ハハ、幕府を作られては敵わんがのう」
家康だけでなく譜代の旗本全て故郷を移る、大名根無し草の極みだったが、今度の此の処置は後々に響くこと大であった。
そして又貧乏籤を引いたのは長谷川秀一で、競争しての出世が消えたが、更に此等に連れて予想外の波紋が広がって行く。
家康を追い出した後の三河遠江の二国には、尾張一国の主織田信雄を宛てる、として内命を発した。
これも大栄転である。
処が信雄は加増は要らぬ、尾張に置いてくれと言ってきた。
大名根無し草戦略に対する反抗、などと言うものではなく、素朴に故郷に居たかったのだろうが、この元主筋のぐうたらが目障りだった秀吉に、いい口実を与えてしまう。
「言うことを聞かぬなら・・」
と、見せしめに尾張も取り上げられて仕舞った。
これで尾張から駿河までの四カ国、論功行賞をする側にとっては突然に手持ち資産の余裕が生まれた。
得をした者は大勢居たが、なかでも秀次与力の面々はいい目にあっている。
即ち秀次が近江八幡から信雄が退いた尾張へ移ったのを始め、水口城主中村一氏六万石が駿府十七万五千石、佐和山城主堀尾吉晴四万石は浜松十二万石、長浜城主山内一豊二万石は遠江掛川五万石 そして筆頭家老の田中吉正三万石が岡崎五万七千石と、近江の要所から東海道の要所へ領地替えになり、それぞれ倍から三倍程の身代になったのである。
この人事を見ていると、秀吉は覇権の初めは尾張の旧織田勢力を仮装敵、今は徳川を仮装敵として備えていることが見えてくる。

処で此の戦を始めるに当たって、秀吉は奥州の諸侯に対し一つの触れを発していた。
北条を攻めるこの役に参陣する事を求めたのである。
関白の権限を以てしたのだが、それは未征服地に対する臣従の勧告である。
大方の諸侯は時勢の流れを見てそれに従ったが、此の地の覇王である伊達政宗は素直ではない。
遅れて参陣して命を取られそうになるが、彼個人の胆力知謀が持つ人間的魅力と、此の地を支配するに当たって現地有力者の力を利用するという、政治的配慮のお陰で助かった。
政宗がそれを計算に入れて行動し、秀吉もそれを見通していて、狐と狸の化かし合いのような駆け引きの結果でもある。
大体政宗がこうなのは、勿論本人の資質に依ることだが、奥州という辺境にあって戦国動乱を生き抜いて来たことが大きかった。
単に中央であった権謀術策下克上の複製が行われただけでなく、それがより細かくみみっちっくなって縮小再生産された形で日常化する中で、死なずに逆に少しづつは大きくなってきたしぶとさが身上だったのである。
処で、その他に何人かの地方領主が参陣しなかった。
肝を据えて断ったのではなく、大方は家庭の事情、つまり下克上的権力争いの思いっきりけちくさいのが、足許に絡んで居て動けなかったのである。
北条征服が終わって奥州仕置きに掛かった秀吉が、そうした連中の領地を召し上げ追放したことは言う迄もない。

 4 奥州仕置き

奥州仕置きで豊臣の天下は完成したのだが、翻って関白殿下に嗣子がない、と言うことは様々な波紋を呼ぶ。
ついこの間の軍司令官の猿が上り詰めるのを、今は臣下の諸侯は皆其の目で見ているのである。
大きな声で言えないだけで、次はどうなるかが最大の関心事だった。
これは直接我が身我が家に関係する。
群雄割拠の時代と違って、大博打をして活路を開くより、長い物に巻かれる方が時勢にあって居る。
徳川家康、又は前田利家、そして秘かに期待されているのが若い蒲生氏郷だった。
家康は何しろ秀吉の主君織田信長公の同盟者であって、言うなれば弟分の大名である。
小牧長久手では秀吉を破っているし、実母の大政所や妹の朝日姫と言った人質を送ってきたことの引き替えに、やっと臣従の礼を取っている。
利家は秀吉の刎頸の友だから、此の二人の人間関係は純粋で信用でき、武将としては一流で、現在家康と共に政権の要にある。
そして蒲生氏郷だが、織田信長が見込んで婿とした天賦の資質は益々輝いて、真に推戴すべきはこの人か、と思わせるところがある。
そして若い。

さて秀吉から見て、足柄山の向こうへ家康を追いやって、更に其の向こうに氏郷を配するという人事は、誠に当を得たものだった。
奥州の探題管領として蒲生を登用し、一番危ない奴を挟み撃ちにして牽制する。
二番目に危ない奴を大身に取り立てても、地勢的な位置関係から安心だ。
彼ならごちゃごちゃしたよく分からない地方の問題を整理して、伊達という地付きの毒にも薬にもなる奴を上手く使いもするだろう。
だが実際には、此れは猛毒だった。
政宗の地方軍閥風手練手管の策謀は、氏郷の本来天下に発揮するべき才能の場を奪い、消耗させて仕舞うという、飛んでもない効果を発揮したのであった。
秀吉の仕組んだことが期待以上に有効に働いたのかも知れないし、政宗自身も天下を望んだからかも知れないが、氏郷は遺恨試合的な泥沼に曳きづり込まれてしまったのである。

事の次第を順を追って述べると、こう言うことになる。
八月氏郷は会津黒川改め、会津若松四十二万石に入った。
故郷の蒲生郡にある若松の森の名前を取ったのである。
同時に小田原不参で没収された大崎、葛西一族の旧領二十万石に木村吉清が封じられる。
彼は明智光秀の旧臣で上杉帰参に功があり、大抜擢といえるものだった。
政宗は遅参の罪で、かつて奪い取った旧芦名の領地を取り上げられる。
処が吉清の領地で豪農や旧臣達に依る大規模な一揆、反乱が起こった。
突然の出世で幕下が不足して居た彼に不手際もあったろうが、地付きの旧権力が残っているところへ、秀吉流の急進的な検地を行ったのが原因といえるだろう。
氏郷は直ちに鎮圧に出動、政宗も加わる。
処が此の辺りから話がややこしくなる。
政宗は陰で一揆の糸を引いていた。
身の危険を感じた氏郷が、一揆から攻め取った城にそのまま籠もって伊達勢に備えたりなどした挙げ句、政宗に恨みを持つ旧家臣が動かぬ証拠を持ってくる。
一揆に宛てた政宗自筆の檄文である。
其れにはちゃんと彼の花押が描かれている。
氏郷は表面上政宗と仲直りをしておいて、直ぐに 伊達謀反 と秀吉に通報した。
正月、二人を大坂に召還した秀吉が、事の真相を究明する。
此処で氏郷は飛んでもない うっちゃり、を食うのであった。
政宗の花押は”鶺鴒”と言われ、鳥の形をしている。
秀吉の追求に対して、彼はこう答えている。
「確かに此の花押は私のもの、さりながら偽物で御座る」
「どういうことじゃ」
「今迄此の身より殿下お手元に差し出しましたる種々書状、この所にお持ち下されませ」
かつて出した、政宗の花押がある書状を取り寄せるように求めた、
そして
「この鶺鴒、良くよく御覧下され、いずれも目の玉の当たりに針の穴を突いて御座る」
「お疑いの花押にはそれが御座らぬ筈」
政宗の完勝である。
氏郷は叱責され、木村吉清は失脚し、大崎、葛西領を失って氏郷を頼って匿われた。
ただし秀吉は抜け目がない。
政宗に対しては本領全部を取り上げて、代わりに大崎、葛西を与えたのである。
政宗は自分が扇動した一揆を鎮圧せざるを得ない立場になる。
此の騒ぎが静まらぬ間に、今度は南部領で争乱が起こる。
南部信直は小田原陣に加わって居て、本領安堵されていたのに、今度は一族の内紛であった。
訴えを聞いた秀吉は秀次を総大将、浅野長政を軍監とする大軍を編成して救援させた。
氏郷は当然此の軍の中核である。
秋、二年がかりの騒動を鎮圧した氏郷は加増されて九十二万石の大大名となった。
しかしながら天下を望む位置にある氏郷にとっては全く無意味な消耗であり、秀吉にとっては実に結構なことだった。
だが、
此の地方の争乱の中で、一つの華やかな話題が生まれている。
 当節天下三美少、
と言うのが、誰からともなく言い出され、諸国津々浦々にまで広まって行ったのだった。
奥羽陣の総帥羽柴秀次公小姓 不破萬作、
会津若松城主蒲生氏郷が小姓 名越山三郎、
葛西大崎領領主木村吉清小姓 浅香荘次郎、
の三名がそれで、
中で年かさの山三郎は、雪降る名生城の攻め口で見せた、類い希な槍捌きと真っ先駆けた奮戦の様とが流行り歌になって、都を始め至る所で口ずさまれていく。

”槍士、槍士は多けれど、名古屋山三は一の槍・・・”

諸将居並ぶ陣営の夜、何処からか唄声が聞こえて来ても、氏郷と当の山三郎は知らん顔をして平然としている、
秀次と吉清は嬉しそうだが、一寸複雑な表情でもあった。
その脇に付き従う麗しき二つの影。
この二人も平然として前を向いている。
ただし腹の中では、此の私の方が上、一番は私、と言う自負が渦巻いて居て、激しい瞋恚の炎を燃やして居る。


   
by annra | 2005-01-03 05:31 | 中巻第三章 変転  (完)