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妖刀伝・外伝を7月1日より新規連載します  室町末期から徳川初期に到る時空列を縦糸、武将と小姓の個の愛と誠が横糸の叙事詩、序上中下巻よりなり、因縁話の基層である序章はポルノ、バイオレンス的描写を含む


by annra
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 一ノ十 千貫櫓

高虎が帰陣した後、信澄は境の港に出張って、船の用意に忙殺されていた。
あの巨船、九鬼嘉隆の鉄船も志摩から廻航されてきた。
先陣として明日は三好康長が渡海する。
元々阿波の細川家の家老だった三好長康、室町幕府の終末期を牛耳った男の一族だから、阿波は本領と言っても良かったし、事実長宗我部の侵略に耐えて今でも何分の一かは実効支配している。
その彼が出陣の挨拶、と言ってやってきた。
信澄が求めたものだった。
相手は降将と言っても戦歴豊富の年長者、副将だからと言って、挨拶を要求したりする信澄ではない。
珍しいことだ、と思った者も居たが、理由があった。
「船の用意も整うて御座る、明日出航致す」
「ご苦労にございます、阿波は御本国、此のいくさ、定めて数多の武勲をお立てになりましょう」
「期してお待ちくだされ」
「そのまえに」
信澄は座り直した。
「御定で御座る」
「は、はっ」
「三好康長儀、このほど四国攻め先鋒を申し付くるにつき、本領阿波一国安堵のこと、あらかじめ約し置くものなり、せいぜい奮励仕るべきこと」
「はッ」
康長は座を滑って、頭を下げた。
深々と下げた、芯から嬉しそうだった。
「これより大坂表ご本陣へ戻り、上方御遊覧の徳川家康様をお迎え致します故、明日のご出帆、お見送りは出来申さず、ご武運をお祈り申し上げまする」
「ハツ、ははぁーっ」

大坂で家康を出迎えた信澄は、一日挿んでまた堺に戻った。
堺遊覧のお供と警護である。
家康には信長馬廻りの長谷川藤五郎が、接待役として随伴している。
信長からは未だにお竹、と幼名で呼ばれている秀一は、お坊、信澄とは近習馬廻り役として、かねてからの同僚であった
その夜は天王寺屋津田宗及の家に止宿する。 それは六月一日だった。
そして六月二日の朝を迎えた。
家康は秀一と信澄を前にして言った。
「まことに有り難うござった。京、堺と上方を堪能させて頂いた上は、帰国に先立って再度信長様にお目通り、御礼申し上げたいが」
「ご丁重なるご挨拶、痛み入りまするが、そこ迄の御斟酌には及びますまいと存じます」
「いや、お手間を取らせるが、これより京へ戻ろうと存ずる」
「上様のご出陣、ご予定は」
秀一が信澄に訊いた。
「中国への御出陣は、早くても明後日でございましょう」
「さようなれば間に合いまするな、ではお供致します」

大坂迄家康と同道し、京橋口迄見送って信澄は城に戻る。
家康一行は京街道を北へと向かう。
異変を知ったのは、京に向かっていた家康の方が早かった。
昼前後に聞こえてきたその一大変事が、虚報ではない、と判断した時の家康の行動は早かった。
「京は敵地と相成った、これより道を東に取り、山道をとって伊勢湾に出、三河に戻る」
悲報に一時は茫然自失であった秀一が、気を取り直して進言する。
「大坂には四国渡海軍が居りまする。一時それに身をお寄せ下さいませ」
家康は首を振った。
「ならば某もお供仕る」 とっさに秀一は言った。
この期に及んでは、家康の無事を見届けることが主命を全うすることだ、と、彼は確信した。
その判断は信長が重用した彼らしい至極のもの、おそらくは信長も認めてくれようが、山崎に参陣出来なかったことで、彼は後々迄不利な立場に立たされることになる。

朝の京での出来事が大坂に伝わったのは、午後になってからである。
始め誰も信じなかった。
だが、あちこちから入り始めた情報はただひとつのことを示して居る。
”明智日向守光秀謀反” そして、
”織田信長様、信忠様ともにお討ち死に”
夜遅くなり、夜が明けた時点でその報道は確定的となった。
一番信じなかったのは、信澄であった。
事実と判っても、信じたくはなかった。
自分をこれ迄育ててくれた事実上の父、四国征討軍副将に任じてくれた主君、
そしてそれを討った謀反人は、妻の父。義理の父。
“謀反人”と言う言葉が彼を襲った、彼の深層意識の中で禁句としていたものだった。
“謀反人の息子” 二度と呼ばれたくない言葉が彼を襲った。

大阪城は騒然としていた。
ただの騒々しさではない。
丸一日経った今、どの城門も開いたままになっている。
新規に与力となった者ども、近郊近国の土豪、小領主達、その軍勢が逃げ散りだした。
総大将信孝の威令も何も無い。
肝心の信孝自身自失して、本営の中を右往左往するだけである。
本来の織田勢の中にも浮き足立つ者が出始める。
三日目になって蜂谷頼隆が統制しようとしたが、抵抗される。
内戦状態になりそうだった。
頼隆は自己の判断で手勢を率いて城外にでた。
城の北側に野陣を張って京方面の情勢を探る。
丹羽長秀は城内に居た。
本丸櫓に、信孝と共に。
そして信孝が、馬鹿なことを言出した。
今頃になって気がついたのだ、そのとたん恐怖に震え上がる。
あいつは、従兄弟のあいつ、副将のあいつは謀反人の息子だ。
昔からそうで、今またそうなった。
あいつは今、千貫櫓だ。
京の光秀、あいつの義理の親父からは、もう密使が来ているのでは・・・
いいや。始めから知っていて、共謀しているのでは、実の父の仇討ちに、
信孝は喚いた。
「信澄を討つ、 あいつは敵じゃ、謀反人の一味じゃ」
長秀はあっけにとられた。
その長秀を放っておいて、信孝は走り出す。

信じられぬことがつづけて起こった時、信澄は冷静だった。
「なぜ」
問うても意味は無かった。
千貫櫓は包囲されていた。
味方の本陣であった兵が雪崩れ込んでくる。
彼は櫓の一番上に上がった。
海を眺めながら肌を開いた。

信孝は長秀が止めるのも聴かずに、それを実行させた。
“この者謀反人の一統なり、よって誅殺しここに晒す”
つい数日前も、信澄が走り回っていた堺の港であった。


この後に続いた、どんでん返しは誰が予想出来たろうか。
やってのけた羽柴筑前守秀吉自身、どれだけ確信があったのだろうか。
彼は戻る途中の姫路城で、城の金蔵を空にして部下に分け与えている、
決戦の覚悟を示して部下を鼓舞する、彼らしい振る舞いだが、後のことは考えないとする本心からのものでもあったろう。
とにかく、彼は引き返した。
あっというまに。
色々な条件も味方したろう、具合よく和議が山場を迎えていた。
だが、のちに中国大返しと呼ばれるこの行動程、軍事的に見て卓越したものはまず無いだろう。
金ガ崎の退き口、中国大返し、この二つの作戦の成功が戦国武将羽柴筑前をして天下人にのぼらせた軍事的成功であり、大きな原動力と言ってよいのだろう。
変の報が至った時、他の戦線では何があったか、
大坂の場合は既に見た。
新占領地の甲信では、武田の旧臣と土民の蜂起にあって、甲斐の太守河尻秀隆は横死、
川中島の森長可は血路を開いて脱出。
更にその先、最前線の上州厩橋に迄出張っていた滝川一益も自身手傷を負って退却と、
総崩れの中で、秀吉のみ山崎に兵を結集して主君の仇を討ち、光秀の天下を十一日で終わらせたのである。

     妖刀伝・外伝 巻之壱  織田信澄     完


   おしらせ:
11日より、巻之弐  豊臣の世 に入ります。
筆者都合により、
アップは下記の予定と致しますので、ご了承ください。
  二ノ一:初参内    7月11日(月) 朝アップ
  二ノ二:風雲、 二ノ三:南光坊天海大僧正                       12日(火)  々 (二日分同時)
  二ノ四:戦後処理   14日(木)  々

15日朝アップ分より、巻之参 血・繋ぐ に入ります。
# by annra | 2005-08-11 01:00 | 外伝巻之壱 織田信澄(完)

  妖刀伝・外伝巻之弐 豊臣の世

 二ノ一 初参内

「えらいことやなぁ」
「ほんまに」
「信長はんの大馬揃え以来やで、此のにぎわいは」
京の町雀がさえずっていた。
「来はったで」
武装した前衛の騎馬と歩卒がやってきた。
後からは平服の供の武士達がおおぜい来る。
騎馬もあれば、徒歩もあるが、一様に和やかな顔をして着ているものも晴れやか、華やかだった。
ギィ、ギィ軋む音が聞こえてくる
「あれや、あれや」
都大路に群れている彼らのお目当てがこれだった。
大きな牛車がやってくる。
御所車、牛の鼻ズラから両側に伸びた赤い紐に赤い水干の牛飼童が取り付いて、あとの白丁達も皆公家の供の姿である。
「おもろい屋根やな」
「檳榔毛唐庇車」
「なんやて」
「ビンロウと言うてな、南国の木の葉で葺いた屋根に唐風の庇の車や」
「こんなな、一代のご盛儀にだけ許される御所車や」
「そやけど、乗ってはるのは御幾つやね」
「五つにならはるのと違うか」
「えらい御威勢やなあ」
「当たり前やろ、太閤はんの一粒種や」
「それが始めて御所へ行かはるんやもんなあ」
無意味な外征など忘れ果てたかのような豪勢さ、豊臣秀頼初参内の光景である。
随行の大名たちは一日晴れと言って、本日に限り規定に縛られず自由に着飾ることを許されていて、公家風と武家風の折衷のよう、動きやすさと華やかさを兼ね備えた身なりで、ただ皆立派な太刀は携えている。
ずらりと勢揃いしてお供する大名達の、端っこの方に藤堂高虎が居た。
今伊予宇和島で七万石、豊臣秀長の家老職を務めていた彼は、主君の死後秀吉の直参となっている。
朝鮮に渡っていたのだが、後見をしていた秀長の後継者、秀次末弟秀保が十津川で変死した為に戻っていた。
それは秀次切腹と同じ年の事で、溺死とも小姓に殺されたとも噂され、そのまま世に忘れられている怪事件である。
その高虎は少年を一人伴っていた。
その子に声をかけるのを、横の大名が聞きとがめて尋ねている。
「今、若、と呼ばれたようだが、ご子息かな」
高虎はその男の顔を、ちらっと見た、
一息吸ってから、おもむろに答える。
「あ、いや、若丸と申すのでござる」
「さようか」
それは太閤殿下のお伽衆で織田信長の次男、一万石取りの信雄であった。

供奉を終えた高虎は瀬戸の海路を宇和島の我が城へと向かった。
朝鮮の戦線へ戻る準備の為である。
そしてその地で、あのとき”若”と呼んでいた少年に、元服の儀を施した。
前髪は残したままで烏帽子を頂いた少年が、新たに持った名乗りは二通りある。
異例なことではあるが、此の一族では珍しくはない。
使い分けるのに規則があるわけでもなく、本人次第、時と所によるのだが、
第一の名乗りは織田信重、もうひとつの名は津田昌澄と言う。
最初のものは織田家の伝統、信の字を上に戴いて、弾正忠家信秀の曾孫に相応しく、二つ目は織田信行の長子にして織田信長の甥である大溝城主織田信澄、幼名は津田坊丸の嫡男であることを示していた。
そして水軍を組織した高虎は肥前名護屋の城に向かう。
名護屋の本営で秀吉の前に出た高虎は、信重〜昌澄を伴っていた。
お目見えを得て、加冠の報告をする為である。
秀吉は機嫌良く会ってくれた。
伴った若武者が織田信重と名乗り、織田信澄の遺児であることを知り、高虎の手で成人したことを知って、かれは飛び上がって喜んでくれた。
「でかした、高虎よ、良くやった、これは大手柄じゃよ」
「そちが信澄の家来であったのは、津田坊の頃であろう」
「御意」
「ならば秀長に仕える前のことではないか、えらい、えらい、旧主の子にそこ迄尽くすとは」
「は、実は四国陣の前に信澄様より後を頼まれましたので」
「そうであったか、それにしてもえりゃあわ」
「高虎っ」
「は。はっ」
「おみゃあの家来にしておくわけには、いかんでなも」
太閤秀吉は興奮していた。
信重は豊臣家の直臣となった。
「わしにとっても主筋じゃ」

高虎は水軍を指揮して朝鮮の戦場へ渡る。
織田信重は豊臣の臣として、藤堂の与力として従っている。
志摩の九鬼嘉隆、淡路の脇坂安治ほどの大艦隊ではないが、瀬戸の海賊の一統であった。
水軍は海外遠征の此の戦において、本来もっとも重用されるべき部門だったが、秀吉は海事に疎かった。
其の点、織田信長とはひどく違っていた。
文禄の役では緒戦から朝鮮水軍に翻弄され、名将李舜臣提督の手で制海権を奪われて補給もままならなくなり、せっかく鴨緑江に迄達した地上軍も押し返されてしまう。
突然の侵略から立ち直った朝鮮民衆の反撃と、明の応援軍の到着と言う事態も重なっていた
朝鮮水軍は亀甲船と言う新兵器を使っていた。
これは船の上部に亀の甲のような覆いを設けて、それ一面に槍の穂を植えたもので、稲藁で覆って出撃すると、飛び乗ってきた無知な敵兵は串刺しになる。
此の頃の海戦は敵船に乗り移っての白兵戦が主だったから、これは致命的だった。
そして、周囲を囲んで隙を伺う敵に対しては、亀甲の下、舷側との間の隙間から石火矢や矢を放つ。
そうしてその間にも織田信長〜九鬼嘉隆〜安南杢兵衛の装甲戦艦、秀吉に取っては悪夢であるあの巨艦群は、志摩の浦のあちこちで朽ちて行っていたのだった。
文禄の経験に懲りた秀吉は、慶長の役では九鬼嘉隆に大船を作るように命じていた。
喜んで建造に取りかかった嘉隆だったが、出来上がったものは、かの戦艦とは全く別のものだった。
注文主の好み考えが全く違う。
それは簡単に言えば城の矢倉と御殿を船の上に積み上げたものだった。
一本の帆柱があるが帆は追い風でしか使えない、そもそも床が傾いたのでは御殿の用にならない。
航海には百丁櫓で漕ぐのだが、それで速度と言えるものは出なかった。
なんとか移動するだけだった。
要するにこれは船ではない。
三本の帆柱いっぱいに風を孕んで、滑るように出て行った乾坤丸の姿が脳裏に焼き付いて居る嘉隆には堪らなかった。
そして命名の段に到って、九鬼嘉隆はついに切れた。
彼はせめてもと、その大船に“鬼宿丸”と言う名を付けるつもりでいた。
織田装甲戦艦戦隊の旗艦の名であった。
出来上がった船を見た秀吉は言った。
彼は上機嫌だった。
その船は彼の好みには合っていた。
でかくて、きんきらきんで、何時も居る御座所のままのようだった。
「嘉隆、これはまさしくわしの舟じゃ、名まえは日本丸、日本丸しか無いぞ」
嘉隆はついにキレた、
あの日乾坤丸の墻頭に翻っていた日の丸の小旗、それに託された織田信長の理想を知っている者には、此の船に此の名は託されない。
彼は隠居を願い出て、志摩に退散した。

嘉隆の引退後何ほども無く秀吉は死の床に臥せった。
意識の確かなうちに指示を出して、織田信重の帰還を命じる。
会うと、秀頼に仕えてくれるように、と、頼み込んだ。
「そなたも、そなたの父も、親の顔を知らず育った、秀頼もかわらぬ、頼む、たのむ」
それは命令ではなく、懇請であった。
# by annra | 2005-08-10 04:00 | 外伝巻之弐 豊臣の世(完)

作者都合により、
 七月十二日分、二ノ二 風雲
 七月十三日分、二ノ三 南光坊天海大僧正              の二節を同時にアップし、十三日のアップはお休みと致します。


 二ノ二 風雲

太閤の死は前線に暫く秘されていた。
こう言ったとき、概ねはこうしたものだが、知らないで戦ってその間に戦死した者は浮かばれない。
死んだのは八月十八日で、撤退が完了したのは十一月も末だった。
そしてそのあとは一瀉千里だった。
前田利家が生きている間は未だ良かったが、翌年彼が死んだ途端に騒動が起こる。
世に言う七将襲撃である。
三月三日の夜、利家の死去が公になった夜、大坂の石田三成邸が完全武装の七将の勢に囲まれた。
囲んだのは福島正則、加藤清正、浅野幸長、蜂須賀家政、黒田長政、細川忠興、そして藤堂高虎である。
結果は三成を取り逃がし、伏見迄逃れた三成は徳川家康の屋敷に駆け込んで庇護を受けたが、そのまま居城佐和山に蟄居となって、家康は一番の政敵を封じてしまう。
七将の動機と目的は何だったろう。
福島、加藤は生理的な反目、つまり秀吉子飼の小姓上がりとして武断派と吏僚派、出世の道が全く異なり対立してきたことにあるだろう。
浅野、蜂須賀は蔚山城の死地をともに乗り越えた戦友愛が、清正に同調と言う形になったと言えるが、問題はあとの三人。
忠興は自ら自らを野心家に分類したが、秀吉亡き後の世相についてどう判断しかつどう積極的に行動するか、野心家のそれぞれの思惑が結果として一致したものであったのだろう。
細川忠興は乱世を望まず、いかにして早期に平和を回復するかを考えて行動した。
黒田長政は全く反対に乱世を呼び込み、その中に己の才能を結実させたい、と望んだ。
そして高虎はそれらに目配りして尻馬に乗った。
世間では、清正等と同じく朝鮮で苦渋を飲まされた結果と捉えるだろう。
それはそれでよし、名聞と迄は行かないが、理由にはなる。
これも戦国乱世を生きてきた知恵だった。
彼は次の大本命、徳川家康に積極的に接近する。
もし主君としたら、それは浅井から数えて七人目となる。

風雲は急を告げていた。
豊臣の五大老のうち、利家の跡継ぎ利長は屈服したが、上杉景勝は明確に反旗を翻した。
家康からに詰問に対して、謀将直江兼続は痛烈な返書を以て報いた。
世に言う直江状、立場の如何を問わず一読背中に風が吹き抜ける気分になる啖呵である。
それを名聞にして家康は上杉討伐の軍を起こす。
大老筆頭が大阪城で軍議をして、謀反人を攻める。
豊臣の家臣たる者、命に従って出兵するのが道理であり、大方はそう動かざるを得ない。
だが、この謀反なるものは石田三成との連携作戦で、家康を大坂から引き離し、太閤後継の野心を砕くのが目的であり、家康またその手に乗って三成の決起を誘う腹なのだから、いずれ東西激突となる。
小山の陣で三成挙兵を知った彼は、直ちに反転した。

徳川家康は比叡山に居る天海を呼んだ。
織田豊臣系の武将達を先発させ、自身は座り込んだ江戸城に、であった。
対上杉の行動を起こしてからと言うもの、全国通々浦々の凡そ領主と名の付く者達からは手紙が殺到している。
要は出陣祝いと言う形をとって慇懃を通じ、ご機嫌を取りあるいは形勢を窺うものである。
それを片端から披見し、相手と内容に応じた返書を書く、多数派工作だが、中身は飴と鞭、色々であった。
その為に多忙をきわめて出陣が遅れに遅れて周囲の不審を買ったが、これにはべつに二つの理由があった。
ひとつは先陣を命じた織豊系諸将の動向向背を見る。
離れておれば万一離反された時の影響が少なくて済む、そしてそのような目で見られていると感じたとき、諸将は一層奮励努力して忠誠を示すだろう。
そしてもうひとつが天海の到着待ちである。
家康が天海と会う時は他の家臣は居ないことが多い。
用向きが概ね加持祈祷ないしは卜占だからだ、と理解されているが、つまりは究極の密議であった。
あの男と始めて会ったのは、関白が太閤となった頃のことだった。
単に比叡山天台の碩学と言うことでつきあい始めたが、お捨、いまの秀頼公誕生の際に密かに立てさせた卦から家臣、謀臣扱いになった。
「御坊に折り入って頼みたい、先々の吉凶を占って頂きたいことが有る」
「なんなりと」
「これへ、」招き寄せた、声を潜める。
「豊家若君ご誕生のことである」
「・・」
天海は目を上げた。 
家康の顔を見る。
だがそのまなざしは常の者とは違っている、
みつめているのではない、もっと言えば見ても居ない、ただこちらを向いて、そしてこちら側のすべてを包み込んでいるような目であった。
「我等にとっての先々の運勢の卦」
「十五日の後に」天海は一礼して下がって行った。
その日が来た。
前にもまして厳重な人払いを敷いた。
「若君のご生誕、豊臣家にとって大凶にござり申す」
「当家には」
「申すまでもなく、大吉」
「訳は、」
「占いに訳等ござりませぬ」
「でも、知りたい」
天海はまた家康の顔を真正面から見た。
「ならば」 天海は座り直した。
家康は問うた。
「世継ぎが生まれて何故の大凶か」
「既に豊家世継ぎはお決めでございまする」
「関白が事よな」
「さようでござる」
「今、実子が生まれる、つまりは、天下争乱のもとか」
天海は瞑目した、
合掌して呪のようなものを唱えている。
家康は考え込んだ。
深く考え込んで、独り言を漏らしていた。
「天下争乱、豊臣家に取っての大凶」
「それが、それ故に、我が家の大吉」
天海は呪を唱え終わった。
ぽつり、と言った。
「王侯将相なんぞ種あらんや」
「太閤の事か」
「捨て、拾い、ともにおなじ」
「母の血筋は、織田、浅井ぞ」
天海は首を振った。
「父親が知れませぬ」

 二ノ三 南光坊天海大僧正

天海が着いた、と聞いた家康は、何時も良くやるように、奥まった小部屋に薬研を持ち込んで、ギイギイ音を立てて、薬を研ぎはじめた。
襖が開いた。
天海が音も無く入ってきて座る。
「よう参られた」
家康は薬研を置かずに側迄招き寄せる。
研ぎ音は格好の目くらましになる。
「太閤亡き後利家も無し、ここ迄は御坊の計らいのごとくで御座る」
「拙僧が計らったわけにてはござらぬ、時の流れ、運気と申すもの」
「さらば次の運気は如何か」
天海は目をつぶった。
「いま東西決戦、大義は何れにも無し」
「なんと、」
「西は秀頼を擁し、東は君側の姦を除くと言う、されど所詮は豊家家来間の私闘でござる」
「よって事はすべて実利によって決する、すなわち軍勢の多寡明らかなればそれにて決し、先々または今、己に利あるはいずれか明らかなれば、それにて決します」
「軍の数、これは定まらぬ、その事自体がそれぞれの利害によって変わる」
「東軍と申し、西軍と申しました、これは東国軍、西国軍と読み替えて宜しい」
「決戦の場は美濃、不破の関辺り、領地がそれに近くかつ東西何れに有るかで、先ず諸候の動向は決まりましょう」
「そのように割り切ってよいのであろうか」
「大局と申すものでござる、勿論九州奥州のごとき遠地は別でござるし、もうひとつ、数は少なくも明らかな信念判断を持って動く者も別でござる」
「それは・・」
「先ず第一、直江山城、上杉幕府樹立が夢でござる。 伊達政宗、これも天下に望みを繋ぎ居ります。ただいずれも今申す東西決戦の場には縁は無し」
「場に絡む者のうちでは何者が・・」
「例えば三成を襲った七将のうち、細川忠興、黒田長政、藤堂高虎の三名、高虎は自身の勘と経験に従って徳川の世と読みこれに掛けており申す、黒田長政、これは父ゆずりの乱世の雄なれば争乱の中の立脚点を徳川に求めて従いまする。細川忠興は父幽斎殿がすべてに通じ、すべてを見通しておりまするなれば、それによりつつも、己の判断にて動き居りまする、ただし黒田と異なり彼が求め居りまするは泰平でござる」
「これらの者は己の考えを固めてお味方仕れば、安んじてお使いなされ」
「ではその逆は、裏切るは、何者」
家康は手を止めて、天海に向き直った。
じっと顔を睨んでいる。
天海も正面から見返している。
二人の間に電流が流れて火花が散った。 
そして、家康はフイと顔を逸らした。
左の袖口をまくり上げた。
「かゆいわ」
肘の辺りを示して掻く、
「朝倉攻め、金が崎の退き口での手傷でな、こう言う時には痒くなる」
目は天海をみつめたまま、
天海も見返したまま、
時が止まっていた。
やがて天海が口を開く。
「天機を捕らえて動く、ならば天下も覆り申す、西軍の中に埋伏なされ、それらの者を」

決戦は近づいていた。
そして東西どちらも豊臣秀頼を立てていることには変わりない。
三成は勿論だが、家康も豊臣に代わるとはおくびにも出していない。
だがよほどのお人好し、ぼんくらは別として、概ねは政権交代を前提で自らの行動を律していた。
お人好し、ぼんくらの代表は大老毛利輝元、家康を先物買いする、はしっこいのは先の七将中の野心家達など。
何が何でも三成憎しの武断派太閤子飼い上がりは別として、その他の諸候は右往左往。
藤堂高虎はひそかに動いていた。
家康に従って下野小山から兵を返したが、上方に居て西軍に属することになる知るべの大名に手を回す。
まずおなじ伊予で同じく七万石、隣りの府中の領主小川祐忠、
この男は山崎の合戦では明智に属し、そのあとは柴田に属したが、長浜城に居た勝家の甥勝豊の付け家老の時、勝豊が秀吉に調伏されたに伴って羽柴に移り、次第に立身した人物である。
次は朝鮮で戦友だった水軍の将、淡路の脇坂安治。
彼は賤ヶ岳七本槍だから、太閤子飼の一人、恩顧の最も厚い一人になる。
此の仲間は強烈な反三成派が多いが、彼はそれほど突出してはいないようだった。
此の二人はいま大老宇喜多秀家の指揮のもと、伏見城攻めに加わっている。
だが、彼等二人は二人とも揺れていた。
そして高虎の誘いに乗って来た。
高虎は家康の前に出た。
「脇坂安治、小川祐忠、それがしが説得に応じ、我が軍に心を寄せ居り申しまする」
「それはよい、したがその覚悟のほど、どのくらいに確かなるか」
「脇坂は太閤子飼なれど、朝鮮の戦で愛想を尽かしておりました。此れは同じ水軍として行動をともに致した某にも良く伝わりおり申す」
「祐忠は如何」
「これは利を以て釣っておりまする、なにがしでもお示し頂ければ即落ちましょう」
家康はちょっと考えた。
「明らかに申すは避けたい、あの男、元々向背常ならぬ。言質は与えずとも転ぼう」
「脇坂は如何致しましょうや」
「うむ」
家康は後ろを振り返った、崇伝に、
「あれを高虎に見せてやれ」
崇伝がもってきた書状を披見して見て、高虎は驚いた。
「これは、」
「脇坂安治、既に二心なきを誓って来居り申す、しこうして高虎殿の説得に応じるものである事も明示しており申す」と、崇伝。
「良く心配りしておる、此れは然るべしじゃ」と、家康。
「それよりも」崇伝が一礼して言う。
「敵の総帥、毛利大老を骨抜きに致しまする」
「なんと、いかにして、」
「吉川家当主広家どの、宗家毛利輝元殿が所領安堵を条件に、当方に従う意向を示し居ります」
「それは大変良い話じゃ、進めよ」
「もうおひとり。毛利三川の一、小早川秀秋殿は」
高虎は訊いた。
家康が返事する。
「此れも手は廻しておる、あの若造ふらついておるがな、良い家臣が居ってな」
「松野道円じゃ」
「あぁ、なるほど、」 高虎は納得する。
「先代隆景殿と二人で朝鮮の山野を駆け回られる姿は、それがしの目に焼き付いておりまする」
「うむ、だがな、もう一人宿老が居ろう、太閤が金吾に付けた家老の稲葉じゃ、」
「あれを天海が操っておるでのう、いずれは役に立つであろうよ、」
崇伝がいやな顔をするのを、片目で流し見しながら家康は呟いた。
「天海が裏切りの糸を引く、さぞや、えげつないものになるであろうよ」
# by annra | 2005-08-10 02:00 | 外伝巻之弐 豊臣の世(完)

 二ノ四 戦後処理

雨は上がった。
霧も晴れた。
高虎は左翼に陣していた、右隣には福島正則の軍、東軍の先鋒である。
藤堂勢と共に有るのは京極高知、正面の敵は大谷、平塚、戸田勢。
左側の山上、松尾山には小早川秀秋の大軍が居て、山麓には脇坂、小川、それに朽木元綱、赤座直保が布陣する。
西軍の参謀格、大谷吉継は小早川の動向に不信を抱いており、その為の両面備えに此の四者を配置したのだが、選りによってその前面に高虎が布陣する事になり、しかも彼の手が回っているとは知る由もない。
戦いは始まった。
両軍の兵力に差はない。
東軍に属した織田豊臣系の諸将は、家康の目を背中に感じて奮戦する。
高虎もその一人だった。
一方西軍には陣を敷きながら参戦しない者が多くある。
最大の者は東軍左背後の南宮山上に布陣する毛利勢だった。
此れは吉川広家が本隊の前を扼する形で動かなかったせいで、当然本隊の毛利秀元の側にも迷いや同調する動きがあったのだろう。
つれて山麓にいた主戦派の安国寺恵瓊や、五奉行の一人長束正家迄動けなかった。
本隊側では島津勢が動かない、此れは岐阜城攻防戦で、島津勢の危機を見捨てて三成が退却したからとも言われたが、要するにここでも三成の人望のなさが響いていた。
結局彼らは西軍敗軍後の脱出戦が主となって、此れは“前へ逃げた”と語りぐさになる戦い振りになったが、無意味な消耗であったとも言える。
そして戦場を側面に見る山上の、小早川勢一万五千が動かない。
なのに、戦局は一進一退の互角であった。
すべての理由は山裾に展開して鶴翼の中に東軍を包み込んだ西軍の陣形にあった。
野戦の第一人者と目される家康が、知っていて此の罠に飛び込んだのは、よほど調服工作に自信があったのだろう。
その松尾山が動かない。
家康は焦った、危機感は頂点に達していた、このままだと逃げ方の算段が必要になる。
彼は発砲を命じた、松尾山に向かって。
それに呼応して秀秋は参戦した、東軍として。
その瞬間、天海大僧正が何処に居て、何をしたのか、
知る者がいる筈のないことであった。

大谷刑部は直ちに反撃した、望まぬ事ではあったが、備えはしていた。
山から駆け下りた小早川勢は押し戻されてしまう。
此の時松野道円は山上を動いていない、主君の命を無視して武士の、人間の一分を立てたのである。
高虎はそのすべてを見て取った。
「今じゃ、かねての合図を」
高虎の本陣の上に、高く大きく真っ赤な旗が振られた。
そして大谷吉継の予想しない事態が起こる。
対小早川に備えたはずの脇坂、小川、朽木、赤座勢が寝返ったのである。

三成の佐和山城を落とし、毛利輝元を追い出して大阪城に入った家康は戦後処理を始めた。
一番の減封はその毛利だった。
食言の大きさも、一番だった。
吉川広家が家康に通じ、関ヶ原でも毛利の本軍とその与力の長宗我部、長束等三万に近い軍を足止めにした条件は、毛利本家の所領安泰で、輝元が大阪城を明け渡したのもその条件が有るからだったのに、六カ国百二十万石の全所領没収のうえ、吉川広家に周防長門で三十七万石を与えると言うものだった。
結局広家が嘆願して、彼の分が毛利の領地として残される。
西軍の将で戦って死んだのは大谷吉継、平塚為広、戸田重正ら小早川の裏切りにあった右翼の勢でいずれも華々しく見事な最期だったが、残りの諸将は戦場を落ちて捕らえられ、主将の三成と、小西行長、安国寺恵瓊は斬首、宇喜田秀家は遠島、長宗我部盛親は所領没収。
裏切った小早川秀秋は筑前名島三十五万石から備前岡山五十万石へ、脇坂、朽木は所領安堵、小川、赤座は召し上げと明暗が分かれる。
そして藤堂高虎は小川祐忠の旧領を併せ二十万石に立身する。
一方加増の最大は蒲生秀行だった。
彼は宇都宮十八万石から元の会津へ、六十万石になって復したが、これは関ヶ原へ引き返した家康、秀忠に代わった家康次男の結城秀康を助け、対上杉戦線を守ったのだから当然とも言えるし、秀吉晩年の減封国替えの不当さを周囲が認識していたせいも有るだろう。
そしてもうひとつ、彼が家康の娘振姫の婿である事が大きかったのだろう。

此の戦はある意味では平地に波乱を起こしたものだった。
天下人が居なくなって、後継がはっきりしないのだから、乱は当然とも言えるが、大名のほとんどは、それを望んでは居なかった。
豊臣の平和、少なくとも国内の平穏無事と、桃山文化の花盛りには、異議申し立てをする者は居なかった。
だから去就に迷い、戦闘そのものは勇戦しても、どこか歯切れが悪く、時にはなあなあ的な雰囲気を感じる場面もある。
家康は事後に東西の色分けをはっきりさせた。
中立と認められたものはほんの一握り、没収出来るところは皆廃絶に追い込んで、論功行賞の資とする。
せっかく裏切ったのに割を食った小川、赤座等が好例である。
中に例えば川中島の森忠政のように、戦前はチャホヤしたのに、直接の戦いは無かったと言うことで、本領安堵と言う”恩典”だけで済まされた者も居る。
そして露骨な形には現れないが、最大の変化は豊臣家だった。
名目上の天下人が実質的には地方大名、摂津河内和泉三国六十五万石におし込められた。
全国に散らばっていた直轄領、飛び領等がすべて無くなったのである。
ただ、大阪城にあって秀頼の身辺に居た、いわば直臣格は家康の差配の範囲からは漏れるている。
そして家康は今度はその辺りに手を伸ばす。

「秀頼殿の廻り、心利いたものは誰かな」
家康は問うた。
「津田昌澄などもおりまするが、一番は、やはり摂津茨木の主、片桐且元でありましょう」と、崇伝。
「賤ヶ岳七本槍じゃな」
「さようでございまするが、肩肘はって世を渡るしか能が無い輩ではございませぬ」
天海が口を挟んだ。
「 石川数正よ 」
「はぁ、」崇伝は言い、すぐに頷いた。
「あ、なるほど、それが宜しゅうございますな」
家康、一瞬いやな顔をしたが、
「それでいくか、だが太閤ほど上手にやれるかな」と言った。
「やってみましょう程に」 崇伝が一礼して応えた。

石川数正と言うのは、嘗て家康の本国三河一円を預かっていた重臣で、徳川筆頭の家来であった。
政略軍略にも長け、家康や家中一統の信任厚く、小牧長久手の役では羽柴の三河切り込み隊を自ら追撃に向かった家康の留守を預かって、小牧山に立てこもっている。
そして織田信雄が屈服した後の講和談判には、大坂に乗り込んで秀吉と渡り合い、五分五分の勝負に持ち込んだ。
和平の標しに家康次男、此の時には実質嫡男の於義丸、のちの結城秀康が、秀吉養子と言う形で出た時も付き添って行き、豊臣徳川外交の第一線で奮闘していた。
そんな彼がある日突然、家康に断りも無く我が屋敷を引き払い、一族郎党を引き連れて三河を出奔し、豊臣の家来になってしまう。
度重なる秀吉との接触の間に、次第にその人柄に引き込まれて、此の方に己の未来を託したい、と思うようになって行ったのだった。
いきさつがどうであれ、秀吉の”人誑し”芸の極地を示した事件である。
最高指揮官、参謀長が昨日迄の敵に移籍する、徳川の軍制、編成ことごとくは秀吉の知るところとなって、家康側は大打撃を被ってしまったのだった。
今度はそのお返しをする。
つまり敵の中に味方を育て、いざと言う時に使うと言う策、戦場での裏切りよりも、もう少し手の込んだ仕掛けを埋伏する訳だ。
崇伝は戦さの結果飛び飛びに出来た摂津河内和泉三國内の欠地、つまり西軍に属した者の飛び領等を徳川の直轄地とし、豊臣家の片桐且元にその代官を依頼した。
基本的に此の三国は豊臣家のものだから、便宜的に頼んだように見えるが、もちろん代官としての給禄はある。
なんのことはない片桐且元は、大阪城の重臣でありながら家康にも属する形になってしまった。
一方で此の後に起きる大坂の役での豊臣方中心人物大野修理治長、淀殿の乳母の息子である彼は関ヶ原では東軍に属して戦って居り、且元の息子も東軍に居た。
また信長の弟織田長益、有楽斎も東軍で戦い、二条城の会見では秀頼に従い、後大阪城に入っているが、結局はまた去っている。
つまり合法的に両属し、結果的には風見鶏になってしまうのが多いのだが、片桐且元の場合には本人が良心的である分だけ悲劇も大きいことになって行く。
その辺りは錯綜していて、結局終始秀頼の側に仕えたのは、津田昌澄くらいと言うことになる。


  妖刀伝・外伝巻之弐  豊臣の世  (完)

明15日より巻之参  血・繋ぐ  を連載します。
# by annra | 2005-08-10 01:00 | 外伝巻之弐 豊臣の世(完)

  妖刀伝・外伝巻之参 血・繋ぐ

 三ノ一 落城

「馬鹿者!。 押せ、おせえーいッ」
正則は哦なりたてた。
その頭の上から岩が降ってくる。
脇にいた雑兵の一人が、もろに当たって下へ落ちて行く。
「クソーツ」

岐阜城、織田信長の天下布武の城、天険である。
押せ押せで駆け上って、金華山の途中迄は取り付いたが、その後が一歩も動けない。
その時である。
「敵陣に乱れが見えまするッ」 「池田隊がッ」
「なにぃ」
がんばっていた織田の陣営が崩れた。「池田隊、搦め手より城内に突入!」
「何でもいい、こっちも突っ込めッ」

守将、織田秀信は追いつめられた。
天正十年のあの日、祖父と父を同時に失った、三歳の自分を立ててくれた秀吉に恩義を感じた彼は、信秀ではなく秀信の名乗りを受け入れ、此の祖父の覇城に封じられていた。
そして東西手切れとなった今、躊躇わず大坂方、西軍に属したのであった。
昨日は城打って出て野陣を張った。
篭城を主張する家臣もいたが、彼は一蹴した。
「我が父祖で此の城に篭城したものは居ない」
意気は盛んであった。部下は良く戦った。
しかし敗れてここに引き、今や天守のてっぺん迄追いつめられていた。

「秀則、こっちへ来い、腹を切る」
「承知ッ」
兄弟向き合って座る。
鎧を脱いだ。
その時だった。 秀則の真後ろの床が跳ね上げられる。
「お待ちあれッ、輝政でござるッ」
一人の武将が躍り出た、秀信に飛びついて腕を押さえる。
「仔細あってお手向かいしたなれど、此の城で三法師様が果てられるなど、あってはならぬ事、此の池田断じてお止め申すぞッ」
池田輝政は、信長の乳兄弟である勝入斎恒興の次男、長久手の戦の後は陣没した父兄の後を継いで、此の城の主だった事もある。
勝手知った搦め手から福島正則を出し抜いて攻め込み、今また秘密の抜け道から此の場へと踏み込んできたのだった。

降人となった織田秀信に対する徳川の態度は厳しかった。
だが、福島正則は断固として主張した。
「もし秀信に死を賜るとあれば、このたびの某の働き、すべて無になって御座る。左様に思し召しなればそうなされ」
事実上の戦線離脱宣言である。
家康は慌てた。助命の事を許した。
関ヶ原の戦が終わった後、秀信、秀則は高野山へと送られた。
秀則はともかく、秀信には終生出家が条件となっている。
信長の嫡流を断つのが、天下人家康の望みであった。

頭を丸めて僧形となった二人を乗せた駕篭の列は、木津川を右に見て進んでいた。
前後を厳しく固めた人数は先の合戦の立役者の一人、脇坂、朽木、赤座、小川などを寝返らせた論功行賞で、今や伊予半国二十万石の主である藤堂高虎のものであった。
行列が過ぎた後ろの木幡山には巨大な城の焼け跡がある。
関ヶ原の合戦の前哨戦となった秀吉の城伏見木幡城。
そして二つの駕篭が進んで行くのは、小椋が池を埋め立てた太閤堤、
豊臣の落日が明らかになった今も、光を失わない大工事であった。
その夜は玉水の宿に泊まる。
関白秀次が高野へ向かう際に泊まったのと同じ宿舎である。
ただ、二人の囚人に与えられた部屋は、下級のものだった。
そしてその秀次が泊まった部屋には、一人の大名がいた。
「若、出てはなりませぬぞ」
そう言ったのは、その大名である。
中庭を隔てて秀信達の部屋の灯りが見える。
縁に迄出れば顔も見えるかもしれなかった。
「わかっております」 
若、と呼ばれた少年は沈痛に答えた。
「貴方とあの方は血と因縁で繋がっているだけでは無く、父君を失う運命も同じでした。 それが今分れようとしています」
「はい」
「私はお父上の家来として貴方に尽くしました。ただ、あの方々を見舞ったのと同じ世の変転が私の立場を替えようとしております」
大名は少年の方に向き直った。
少年はその相手の顔を真正面から見、もの柔らかな落ち着いた視線を返した。
「高虎殿、今日迄の御養育、今更ながらの感謝の気持ち、変わる事はございませぬ。さりながら私にも公の立場と言うものが出て参りました」
「そして藤堂家にも天下に律して行かねばならない新しい立場と言うものがございます」
藤堂高虎は深くうなずいた。
少年は言った。
「本日は有り難うございました。三法師様を陰ながらお見送りした後は、思い残す事はございませぬ。私はもはや織田信重ではなくなりました」
少年は深々と一礼した。
「豊臣秀頼様御近侍津田昌澄、ただいまより徳川家康様が旗下、藤堂高虎様と、武士と武士としてのおつきあい、始めさせて頂きたく存じます」
「仰せの程、確と承りました。こちらこそ、改めて宜しくと申し上げる」 そして、
「少々お待ちあれ」 
高虎は立って部屋を出た、
そして一振りの刀を持って戻ってきた。
「この刀を進上仕る、否。お返し申し上げる」
「これはお父上より賜ったものにござる、信光と銘が御座る」

津田昌澄が大阪城へ、藤堂高虎が伊予国府の我が城へと別れて去った次の日、奈良坂を降りて行く駕篭を見守るまた別の目があった。
望月の里を降って柳生に出、同じく高野山へと志す、名越山三郎である。
胸の白木の箱には骨壺となった浅香荘次郎がいた。
彼等は駕篭についたり離れたりして高野迄同行する。
# by annra | 2005-08-09 12:00 | 外伝巻之参 血・繋ぐ(完)