一ノ十 千貫櫓
高虎が帰陣した後、信澄は境の港に出張って、船の用意に忙殺されていた。
あの巨船、九鬼嘉隆の鉄船も志摩から廻航されてきた。
先陣として明日は三好康長が渡海する。
元々阿波の細川家の家老だった三好長康、室町幕府の終末期を牛耳った男の一族だから、阿波は本領と言っても良かったし、事実長宗我部の侵略に耐えて今でも何分の一かは実効支配している。
その彼が出陣の挨拶、と言ってやってきた。
信澄が求めたものだった。
相手は降将と言っても戦歴豊富の年長者、副将だからと言って、挨拶を要求したりする信澄ではない。
珍しいことだ、と思った者も居たが、理由があった。
「船の用意も整うて御座る、明日出航致す」
「ご苦労にございます、阿波は御本国、此のいくさ、定めて数多の武勲をお立てになりましょう」
「期してお待ちくだされ」
「そのまえに」
信澄は座り直した。
「御定で御座る」
「は、はっ」
「三好康長儀、このほど四国攻め先鋒を申し付くるにつき、本領阿波一国安堵のこと、あらかじめ約し置くものなり、せいぜい奮励仕るべきこと」
「はッ」
康長は座を滑って、頭を下げた。
深々と下げた、芯から嬉しそうだった。
「これより大坂表ご本陣へ戻り、上方御遊覧の徳川家康様をお迎え致します故、明日のご出帆、お見送りは出来申さず、ご武運をお祈り申し上げまする」
「ハツ、ははぁーっ」
大坂で家康を出迎えた信澄は、一日挿んでまた堺に戻った。
堺遊覧のお供と警護である。
家康には信長馬廻りの長谷川藤五郎が、接待役として随伴している。
信長からは未だにお竹、と幼名で呼ばれている秀一は、お坊、信澄とは近習馬廻り役として、かねてからの同僚であった
その夜は天王寺屋津田宗及の家に止宿する。 それは六月一日だった。
そして六月二日の朝を迎えた。
家康は秀一と信澄を前にして言った。
「まことに有り難うござった。京、堺と上方を堪能させて頂いた上は、帰国に先立って再度信長様にお目通り、御礼申し上げたいが」
「ご丁重なるご挨拶、痛み入りまするが、そこ迄の御斟酌には及びますまいと存じます」
「いや、お手間を取らせるが、これより京へ戻ろうと存ずる」
「上様のご出陣、ご予定は」
秀一が信澄に訊いた。
「中国への御出陣は、早くても明後日でございましょう」
「さようなれば間に合いまするな、ではお供致します」
大坂迄家康と同道し、京橋口迄見送って信澄は城に戻る。
家康一行は京街道を北へと向かう。
異変を知ったのは、京に向かっていた家康の方が早かった。
昼前後に聞こえてきたその一大変事が、虚報ではない、と判断した時の家康の行動は早かった。
「京は敵地と相成った、これより道を東に取り、山道をとって伊勢湾に出、三河に戻る」
悲報に一時は茫然自失であった秀一が、気を取り直して進言する。
「大坂には四国渡海軍が居りまする。一時それに身をお寄せ下さいませ」
家康は首を振った。
「ならば某もお供仕る」 とっさに秀一は言った。
この期に及んでは、家康の無事を見届けることが主命を全うすることだ、と、彼は確信した。
その判断は信長が重用した彼らしい至極のもの、おそらくは信長も認めてくれようが、山崎に参陣出来なかったことで、彼は後々迄不利な立場に立たされることになる。
朝の京での出来事が大坂に伝わったのは、午後になってからである。
始め誰も信じなかった。
だが、あちこちから入り始めた情報はただひとつのことを示して居る。
”明智日向守光秀謀反” そして、
”織田信長様、信忠様ともにお討ち死に”
夜遅くなり、夜が明けた時点でその報道は確定的となった。
一番信じなかったのは、信澄であった。
事実と判っても、信じたくはなかった。
自分をこれ迄育ててくれた事実上の父、四国征討軍副将に任じてくれた主君、
そしてそれを討った謀反人は、妻の父。義理の父。
“謀反人”と言う言葉が彼を襲った、彼の深層意識の中で禁句としていたものだった。
“謀反人の息子” 二度と呼ばれたくない言葉が彼を襲った。
大阪城は騒然としていた。
ただの騒々しさではない。
丸一日経った今、どの城門も開いたままになっている。
新規に与力となった者ども、近郊近国の土豪、小領主達、その軍勢が逃げ散りだした。
総大将信孝の威令も何も無い。
肝心の信孝自身自失して、本営の中を右往左往するだけである。
本来の織田勢の中にも浮き足立つ者が出始める。
三日目になって蜂谷頼隆が統制しようとしたが、抵抗される。
内戦状態になりそうだった。
頼隆は自己の判断で手勢を率いて城外にでた。
城の北側に野陣を張って京方面の情勢を探る。
丹羽長秀は城内に居た。
本丸櫓に、信孝と共に。
そして信孝が、馬鹿なことを言出した。
今頃になって気がついたのだ、そのとたん恐怖に震え上がる。
あいつは、従兄弟のあいつ、副将のあいつは謀反人の息子だ。
昔からそうで、今またそうなった。
あいつは今、千貫櫓だ。
京の光秀、あいつの義理の親父からは、もう密使が来ているのでは・・・
いいや。始めから知っていて、共謀しているのでは、実の父の仇討ちに、
信孝は喚いた。
「信澄を討つ、 あいつは敵じゃ、謀反人の一味じゃ」
長秀はあっけにとられた。
その長秀を放っておいて、信孝は走り出す。
信じられぬことがつづけて起こった時、信澄は冷静だった。
「なぜ」
問うても意味は無かった。
千貫櫓は包囲されていた。
味方の本陣であった兵が雪崩れ込んでくる。
彼は櫓の一番上に上がった。
海を眺めながら肌を開いた。
信孝は長秀が止めるのも聴かずに、それを実行させた。
“この者謀反人の一統なり、よって誅殺しここに晒す”
つい数日前も、信澄が走り回っていた堺の港であった。
この後に続いた、どんでん返しは誰が予想出来たろうか。
やってのけた羽柴筑前守秀吉自身、どれだけ確信があったのだろうか。
彼は戻る途中の姫路城で、城の金蔵を空にして部下に分け与えている、
決戦の覚悟を示して部下を鼓舞する、彼らしい振る舞いだが、後のことは考えないとする本心からのものでもあったろう。
とにかく、彼は引き返した。
あっというまに。
色々な条件も味方したろう、具合よく和議が山場を迎えていた。
だが、のちに中国大返しと呼ばれるこの行動程、軍事的に見て卓越したものはまず無いだろう。
金ガ崎の退き口、中国大返し、この二つの作戦の成功が戦国武将羽柴筑前をして天下人にのぼらせた軍事的成功であり、大きな原動力と言ってよいのだろう。
変の報が至った時、他の戦線では何があったか、
大坂の場合は既に見た。
新占領地の甲信では、武田の旧臣と土民の蜂起にあって、甲斐の太守河尻秀隆は横死、
川中島の森長可は血路を開いて脱出。
更にその先、最前線の上州厩橋に迄出張っていた滝川一益も自身手傷を負って退却と、
総崩れの中で、秀吉のみ山崎に兵を結集して主君の仇を討ち、光秀の天下を十一日で終わらせたのである。
妖刀伝・外伝 巻之壱 織田信澄 完
おしらせ:
11日より、巻之弐 豊臣の世 に入ります。
筆者都合により、
アップは下記の予定と致しますので、ご了承ください。
二ノ一:初参内 7月11日(月) 朝アップ
二ノ二:風雲、 二ノ三:南光坊天海大僧正 12日(火) 々 (二日分同時)
二ノ四:戦後処理 14日(木) 々
15日朝アップ分より、巻之参 血・繋ぐ に入ります。
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by annra
| 2005-08-11 01:00
| 外伝巻之壱 織田信澄(完)