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妖刀伝・外伝を7月1日より新規連載します  室町末期から徳川初期に到る時空列を縦糸、武将と小姓の個の愛と誠が横糸の叙事詩、序上中下巻よりなり、因縁話の基層である序章はポルノ、バイオレンス的描写を含む


by annra
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妖刀伝・外伝  巻之壱  織田信澄  一ノ八


 一ノ八 大馬揃え

信長にとって宿癌であった石山本願寺の件が片付いたとき、既に上杉謙信、武田信玄は亡く、関東の北条は家康を通じて誼を通じている。
羽柴秀吉が毛利と対陣しているが、一頃の四面楚歌とは打って変わって、天下布武の道筋は、はっきりと形になってきた。
信長は明智光秀を呼んだ。
「そちに相応しい働き場を考えたぞよ」
光秀は期待した。このお方は訳の判らぬこともよくするが、少なくとも自分の値打ちは判ってくれている。
「光秀、そなたに大馬揃えの総奉行を命じる」
「はっ」
「主上をお迎えして禁裏の脇に然るべき場を整え、織田全軍を集めての大馬揃えじゃ、信長一代の盛儀と心得よ」
「はっ、はーっ」

大馬揃えは二月二十八日と決まった。
正親町の帝を始め、上下の貴権から京の町雀に到る迄、押し寄せたすべての人々の前を大行進して、今の織田の勢威を披露するのである。
前線部隊にもふれが廻されて、それぞれが手当をして京に参集する。
その事自体が、現在の織田軍の余裕を示している。
信長の構想のもと、部隊編成、行進の順序は光秀を総奉行とする企画立案係が設定する。
途中段階で信長に報告し指示をあおぎ、最終決定に至るのだが、その前の下準備が大変だった。
典礼としての式次第や観閲式としての形態は光秀が裁量して進められるが、事務方にとってはそれ以前に実施上の細部でのこまごまとした問題や、参加の諸将からの苦情処理問題が山積する。

「光秀よ、これはよくないぞ」
今日も一人ねじ込んできた。織田信孝である。
「わしゃ、いやじゃ」
「なんでござるか」
「順序よ、行進の」
「はて、嫡男信忠様、信雄様、信孝様、これで何か」
光秀ならずとも、信孝が三男扱いされていることに不満を持っていることは知っている。
実際に信孝の方が信雄より早く生まれたのだが、生母の家格からこうなっている。
だが、今更ここで蒸し返されても、どうにもなるものでもない。
光秀が、やんわりとそれを言うと、
「違うわ、そのようなことではないわ」 図星を指されて、カッとなっている。
「では、なんでござるか」
「わしの後ろがなんで信澄じゃい」
「はあ」
「あれは父上から言って甥じゃ、子の次は兄弟、兄弟の方が先じゃ」
「叔父上様は多うござれば」
「甥も多かろうが、なんで信澄か、あれは謀反人のせがれじゃ」
八つ当たりである。光秀には判っていた。そして信孝自身も判っている。
同年代の血縁の中では信澄が傑出していて、信孝の方が劣ると見られていることを。

此の問題は光秀が巧く納めた。
信孝は内心では二番目になれぬことに未だこだわっていたが、後ろの四番目が叔父の信包になったので、一応言い分が通ったものと納得する。
信包は信長の弟で、大勢の兄弟中で終始信長に従った唯一の存在である。
ところがその後ろ、織田家御連枝の隊の五番目が信澄と知って、また機嫌が悪くなる。
これは織田一族間の順位五番ということで、自分のすぐ後であることには変わりない。
信孝は光秀と信澄に、してやられた、と思った。
そう言えば、この間婚礼を上げた信澄の夫人は、明智の娘のはずだった。

光秀は大忙しだった。
次々に仕事が、難題がわいて出る。
今日は京の町中へ出ていた。
細川忠興が一緒である。 彼も光秀の婿になる。
だが今日の用事は、そう言ったこととは関係がない。
忠興が京中走り回って見つけてきた、唐渡りの蜀江錦を持っている輪違屋と言う織屋に迄出張って交渉である。
「何せ品は見せても素直に渡してくれませぬ、金がどうと言うのではないようで」
「そなたに会いたいと言うのは、殿に直接献上したいのでは」
「そうでござろうか」
手こずっていた細川忠興だったが、光秀が行くと目的自体は簡単に解決した。
その輪違屋草兵衛と言うのは三十がらみの男だったが、店先に現れたのが御馬揃総奉行明智光秀と知ると、恐悦して一人の年寄りを連れてきた。
「輪違屋草兵衛隠居、先代でござりまする」
老人は歯の抜けた口をモゴモゴさせて言った。
「舶載の蜀江錦、此のたびの盛儀にぜひ用いたい、我が殿の晴れ着を仕立てたいのじゃ」
「織田の信長様御用にございまするな」
「その通りじゃ、言うまでもなかろう」
「承知仕ってござります、信長様御用にこそ、と今迄長年秘蔵して参りました」
「それは重畳、そこ迄の思い入れとは、殿にも言上仕ろうぞ」
「嬉しゅうござる、この草兵衛、信秀様ご子息が天下を取られたを見ることが出来申した」
「何と、そちは信秀様を存じ上げてか、」
「あなた様も存じ上げておりまする」
「え、えっ」
光秀は驚いた。
「あれは天文十九年になりましょうか、御霊社の仮宮を奉安致しましたおり、あなた様は未だ前髪の細川藤高様お供でご一緒に参られた、その折りに織田信秀様は御同席でございました」
光秀は仰天した、 忠興も同様である。
「すまぬ、そのようなことがあったこと、なにがしか思い出しはしたが、済まぬ、もう少し詳しく話してはくれまいか」

そしてその日となった。
信長は宿舎の本能寺から室町を上がり、一条を東に出て御所脇に設けた埒に到る。
そこにはきらびやかに飾った行宮が建てられていて、正親町の帝が百官を従えて出御されている。
織田軍先頭は先ず丹羽長秀、自身の馬廻りに摂津、若狭の衆を従えて登場、次、蜂屋頼隆と河内、和泉の衆、三番は奉行明智光秀が大和山城衆と共にと続いて、一門連枝の衆の出番となる。
最初に織田信忠が八十騎と美濃尾張衆を従え、続いて信雄が騎乗三十に伊勢の衆、次には信包と馬乗り十騎、信孝同じく馬乗り十騎、信澄同十騎と続き、その後は信長末弟長益以下七名がそれぞれに率いる騎馬隊、と言った順序で主上御前を行進する。
光秀が苦心の順序変更は昨日になって信長の知るところとなり、
「叔父が先と言うは尤もである」と、信孝は信包の後ろに廻されてしまったのであった。
信長にしてみればお灸を据えて戒めとしたのだが、信孝が素直に理解したかどうかは疑問である。
ともかくなおも軍勢は続き、更に近衛前久を始めとする公家衆の十騎、続いて馬廻り小姓組の若衆たちが各十五騎ずつの隊列を組んで現れるに及んで華麗さは頂点にまで達した。
玉座の前で彼らが上げる敬礼の鬨の声に和して、列座の殿上人や大小名、群衆の末に到る迄が一斉に上げる歓声が天地に轟いて、その中に信長自身があの蜀江錦の小袖を着、能楽の住吉明神に擬した華麗な出で立ちで登場する。
当日参集した軍勢は三万余、軍馬一万三千と伝えられ、十五騎一組で行進しているうちに、馬場の広さにかまけて三組四組が横に広がって、互いに駆けちがってみせたりして進んだので、その勇壮さ華麗さはこの上も無いものだった。
by annra | 2005-08-11 03:00 | 外伝巻之壱 織田信澄(完)